閉じる
電話で
お問い合わせ
転職サポートサービス登録

トップランナー 公認会計士

世界から注目される創薬ベンチャーを
加速させるCFO

株式会社アークメディスン
取締役CFO 篠原 英次さん
株株式会社アークメディスン 取締役CFO 篠原 英次さん株株式会社アークメディスン 取締役CFO 篠原 英次さん

テニスサークルと塾講師をやりながらTACへ

神奈川県戸塚生まれの私は浅野中学校へ進学。星を見ることが好きだったこともあり地学部に所属していました。天体を観察することは表の理由で、友達とくだらない話をしながら徹夜をするのが主目的でした。高校に進学してしばらくした頃、経理職だった父親から「公認会計士はいい職業だぞ。専門知識で仕事ができて収入も高い。目指してみたらどうだ?」と提案されました。これがきっかけとなり、何となくではありますが、高校時代に公認会計士を目指すことを前提に慶應義塾大学商学部に入学しました。

公認会計士を目指していたものの大学生らしい生活を謳歌したかった私は、テニスサークルに入り、毎週飲み会へ行くようになります。また、中学受験でお世話になった塾の先生と再会したことをきっかけに、塾講師で小学生に算数と理科を教えることに。サークル・飲み会・アルバイトをしながらあっという間に2年が経過。大学3年生から会計士受験を本格始動することになりました。模試や本試験が終わった日にはTACの受験仲間と大酒を飲んでいた記憶があります。そんな私でしたので、論文式試験に合格したのは大学を卒業してから2年後でした。

テニスサークルと塾講師をやりながらTACへ

監査チームの過半数は外国人。英語は笑顔で乗り切った。

論文式試験に合格した私は青山監査法人へ入所しました。当時は売手市場で前年の短答式試験合格時に内定をもらっている状況でした。つまり、1年間私の合格を待っていてくれたのです。今の会計士受験生や若手会計士はご存知ないかもしれませんが、当時の青山監査法人はプライスウォーターハウス(Pw)のメンバーファームでした。2000年に中央監査法人と合併して中央青山監査法人となりましたが、2005年のカネボウ事件の影響を受け新しく設立されたあらた監査法人(現PwC Japan有限責任監査法人)に移籍するという激動の時代でした。

話をもとに戻します。青山監査法人では金融部に希望配属されました。会計士試験に合格する前から相談に乗っていた浅野高校の先輩が在籍していたからです。金融部では、外資系金融機関から地銀や信用金庫までの監査を担当しました。仕事は苦労の連続でした。外資系金融のメインクライアントの監査チームは8人中5人が外国人、3人が日本人でした。しかも、私以外の日本人2人は帰国子女で英語が堪能。監査チームのミーティングは英語です。当時の外国人パートナーから「お前、会議の何%理解できた?」と問われ「10%」と返答しましたが本当は「0%」でした。そこから英語をまじめに勉強しはじめたものの、笑顔でごまかす日々が続いたのです。

監査チームの過半数は外国人。英語は笑顔で乗り切った。

3次試験(現修了考査)を1回で合格するつもり?

担当パートナーは英語が苦手な私をとてもかわいがってくれましたので、仕事には楽しく向き合うことができました。若手時代の面白いエピソードとしては、3次試験(現修了考査)があります。当時の上司に「3次試験の勉強をしたいから土日はアサインしないでください」と伝えると「お前、1回で合格するつもりなのか?」と言われたのです。当時はこのような会話が普通でした。事実その上司も3次試験に5回落ちていましたし、金融部のトップも1回では合格していませんでした。外資系金融がクライアントで試験日程が厳しい時期にあるということも理由でした。時代的にも、1に仕事、2に仕事、3に私事という風潮がありました。3次試験の一週間前に石垣島出張というのもありました。石垣島の滞在時間はたったの3時間。試験と無関係なメンバーが遊びに行くのを横目に飛行機の中で勉強しました。3次試験はなんとか2回目でクリアすることができました。

監査法人4年目で公認会計士登録した私は、インチャージに昇進しました。当時は監査とは別に銀行の不良債権問題で「債権者区分」の作業に追われていました。なぜか私が現場責任者となり、束ねる20人のチームにはマネージャークラス以上の方もいました。今振り返ると、監査とは別にこうしたスポット案件も多く任されたことで大きく成長できたと実感しています。上席から気に入られるとアサインがどんどん入りました。私の武器は「人当たりの良さ」だったのかもしれません。1日3社巡回することも珍しくありませんでした。午前は信用金庫、午後はファンド、夜はメガバンクの合併案件と向き合い深夜まで働き、タクシーで帰る毎日。自宅は風呂と就寝だけの場所と化していました。

3次試験(現修了考査)を1回で合格するつもり?

妻に内緒で上場準備会社へ転職する

職場が中央青山からあらた監査法人に変わる直前にはマネージャーに昇進していました。
その後、PwCのニューヨークへ1年間駐在しました。日系メガバンクの御用聞きを日本語でし、本部へ英語で伝える仕事です。オフィスはニューヨークの一等地にありましたので気分はよかったです。もう少しニューヨークにいたかったのですが、日本でIFRSへのコンバージェンス人員が不足していることを理由に帰国しました。ディレクターになった頃「次はパートナーになれるのか?」「このまま監査一筋の人生を送るのか?」と悩みだしました。監査法人のパートナーはいわば営業職。営業やお詫びをすることは自分の性にあっているのか…。考えた末に私は転職を決意しました。

私が監査法人から事業会社に転職をしたのは38歳の時です。エージェントに登録すると、IFRS導入の経験が評価されてニューヨーク上場を準備していたある農薬会社への転職が決まりました。経理部長以下10名の組織でIFRS担当のインハウス会計士となったのです。転職して一番嬉しかったのは「自分のデスクがあること」でした。監査法人時代は長らくフリーアドレスでしたし、監査六法、PC、紙の資料で破裂しそうなビジネスバッグ(毎年壊れて購入していました)を毎日持ち歩いていました。そうした環境の変化がとても新鮮に感じることができたのです。転職は妻に対して事後報告でしたので、怒鳴られてしまいましたが。

妻に内緒で上場準備会社へ転職する

IFRS導入からUSGAAP開示へ

転職後、1年間かけてIFRSを導入。NYSE(The New York Stock Exchange:ニューヨーク証券取引所)に書類を提出後、なんと、会社が米国企業に買収されることになりました。その流れで、2年目は米国基準(USGAAP)開示の仕事へシフトすることに。今でも忘れることができない小話があります。買収が決まってすぐに「今からアメリカに一緒に行ってほしい。」と早朝に部長から着信がありました。布団の中にいた私は半信半疑、寝耳に水です。5時間後に成田に到着した私は「決算書が完成するまでアメリカにいてくれ。2週間もいれば大丈夫だ。」と伝えられます。私は言われるがままにアメリカへ飛びました。2週間が経過するものの「決算がまだ締まらない。いつ帰れるかは分からない。」と追い打ち。結局、滞在期間は3週間となりました。

無事に帰国をしてからも一か月間の半分はアメリカ、半分は東京という生活が続くことになりました。さらには私のポジション自体がアメリカ駐在になってしまったのです。「アメリカで働くか?退職するか?」の二択を迫られた私は、当時小学生だった子供のことを考え後者を選んだのです。退職を決意してからは、半年間かけて現地のアメリカ人(USCPA)に日本基準からUS基準へのコンバージョンのレクチャーを実施。無事に円満退職を迎えました。

スタートアップ企業の管理部門全体を手掛ける

監査法人と事業会社を経験した私は「次は自分で何かやってみよう!」と思い2016年に独立開業しました。これも妻には事後報告でした。独立後はPwCや先輩が立ち上げた監査法人のスポット案件をいただけたので、収入に困ることはありませんでした。しばらくするとスタートアップ企業から相談を受けましたが、過去経験があまりないため経験と知識をつけたいと思っていたところ、あるスタートアップ企業から誘いがありました。当時は50人規模の会社で、管理部門全体を任せていただくことになりました。CFOと資金調達業務をしながら人事制度整備から引越などの総務系まで幅広い仕事にチャレンジすることに。上場へ向けた内部統制を構築しながら監査法人の窓口も担当しました。アーリーステージの大変さを体感するとともに会計財務以外の業務を経験できたことは貴重な財産でした。当時のCFOが大変優秀な方でしたので「次は自分がCFOになってみたい」と思い2年間で退職することになりました。

社会的貢献度の高い会社を軌道に乗せることが私のミッション

次に私が赴いたのは手術支援ロボットの開発を行っているスタートアップ企業でした。CFOとして管理部門を統括しながら、取締役会運営、投資家対応を担当。広報として新聞社の取材を受けることもあり、日本経済新聞にCFOの肩書で掲載されたこともありました。社長は天才的な開発者で、所謂「ゴッドハンド」と言われる名医とともに手術支援ロボットの開発を行っていました。この会社はカテーテル関連企業の大手に買収されることとなり、無事にEXITを迎えました。そのときの出資者が中心となって、社長や医師とは今でも年に1回は食事に行く間柄です。

2年毎に私の職場が変わり続け、知人を通じて次のポジションが回ってきました。「つくばのスタートアップがCFOを探している」と連絡が入ったのです。2022年、私は現職の株式会社アークメディスンのCFOに着任。最初の3か月間は「アークメディスンがどんな会社なのか」を把握することに専念しました。アークメディスンは、新しい低分子医薬の研究開発に特化した企業です。独自の創薬合成技術HiSAP®により、薬効が弱い、副作用が強い、体内動態が足りないなどの先行薬の課題を短期間に改善することに取り組んでいます。簡単に説明すると、既にある医薬品の副作用などの弱点を改善して世界へリリースすることです。
2019年設立と若い会社ですが、すでにライセンスを3件しています。社長は東北大薬学部出身で大手製薬会社の研究所から独立した研究者です。

今の私は、主に上場へ向けた準備に取り組んでいます。資金調達では約10社の企業から出資をいただくことができました。弁護士と連携しながら契約書を作成し、株式や債券の優先劣後、価格等を緻密に交渉していく仕事です。未上場株式は条件が複雑化するため、なかなか骨の折れる作業です。
2026年5月には新たな資金調達に取り組みました。大手の積水メディカル株式会社と事業連携契約も締結できました。加えて、海外のクロスオーバー投資家「Arcus South East Asia Sdn. Bhd.(アーカス)」を引受先とする第三者割当増資を実施し新薬の開発を加速させています。アーカスさんは、1年前の投資家イベントで私からお声掛けし、つくばにて社長を含めた経営陣と直接面会の機会をつくりました。これは小さな自慢話ですが、今回の出資は、当社の技術力および事業の成長性に対する国際的な評価の表れであると考えております。
なお、CFOの主な役割はあくまで経営を支えることですが、当社の強みである高い技術力と「新薬を次々に創出する」という社長を中心としたメンバーの熱い情熱を外部に伝えたいとも思っています。

市況感として、創薬ベンチャーには向かい風が吹いています。また、東証グロース市場の上場維持基準は2030年3月から「上場5年経過後に時価総額100億円以上」に変更されます。私は、ライセンス契約を増やしていくために「何ができるか?」を常に考えています。大学との連携、外部連携窓口、資金調達へ向けた機関投資家との交渉等、私の仕事に「同じ日」は一日もなく、毎日何かしらのイベントが起きるので大変刺激的です。上場は1つの手段でしかありません。新薬で人の命を救うという社会的貢献度の高い会社を軌道に乗せることが私のミッション。将来、年老いた自分が世界中に出回ったアークメディスンの薬を見て自慢することを楽しみにしています。

プロフィール

株式会社アークメディスン 取締役CFO 篠原 英次さん

トップランナー 公認会計士 vol.35
篠原 英次 Eiji Shinohara


四大監査法人において監査業務及びアドバイザリー業務に15年間(うち1年間はNew Yorkに出向)従事後、外資系企業の経理及びスタートアップ企業の管理業務全般を経験。CFOとして関与した前職をM&AによりExitさせた後の2021年7月に株式会社アークメディスン入社。CFO兼管理部部長として、経理をはじめ管理業務全般を統括。2022年12月取締役就任。公認会計士。

TACマリッジコンシェルジュ
TACマリッジコンシェルジュ

コンサルタント紹介

転職サポートサービス

転職サポートサービス 転職サポートサービス

転職サポートサービス

企業への応募から内定まであなたの就職・転職をサポートするサービスです。個別相談は会計業界に特化したコンサルタントが担当いたします。

サービス案内 転職サポートサービス登録 (無料)

WEB面談

海外を含む遠方在住の方、
忙しくて時間が取れない方には、
WEB面談を実施しています。

お気軽にお問合せください。